今回の記事は今年10年の節目を迎える東日本大震災を振り返ります
いつも字ばっかりの記事ですが今日も字ばっかりです
当時僕は37歳で、当日は足立区の扇というところで透湿防水シート張りをしていました
3時から防水検査を受ける予定で職人さんと二人で工事をしてました
2階のサッシ周りの紙張りをしていたら足場がグラグラ揺れ始めて
誰かが足場に上がってきたのかなって思ってたら揺れが激しくなってきて
足場から落ちそうになりましたが、窓が開いてたのでそこから部屋の中に飛び込んで難を逃れました
同じ分譲地の中ではラフターを使って上棟をしていたのですが、転倒や落下などの事故は起きませんでした
ラジオからは新幹線が止まったとか市原のコンビナートで火災が起きてるとか、とんでもないことが
起きてるのだけは理解出来ました
何年か前に関東で大きな地震があったときに京葉道路や首都高が通行止めになって家に帰れなくなったのを思いだし
同じ分譲地にいた職人さんたちは帰れなくなっちゃうからって急いで帰っていきました
僕は家から近かったのでとりあえず紙張りだけは終わらせて検査受けようってことになって仕事を続けました
帰りは普段40分位で帰れるところ1時間30分位かかって帰りました
千葉から来てる職人さんたちは6時間とか8時間かかって帰ったそうです
仲間で横浜に通ってた子は次の日の朝まで帰って来られませんでした
僕の家では家族や親戚に直接の被害は無かったのですが、その後に起こった原発事故や
鹿嶋、北茨城のメーカーの工場の被災で材料が欠品して仕事が出来なくなったことが印象に残ってます
当時長女が生後6ヶ月で水道水が汚染されてるのでミルクに使うなってメールが入ったときにはホントに大変なことが起きているんだと感じました
お水がどこにも売って無くて現場の休憩所の自販機の水を買い占めたのは良い思い出です
ガソリンが無くなったのも大変でした
作業車はたまたま地震の前の日に満タンにしていたので品薄騒ぎの間は給油しなくて済んだので
ラッキーでした
計画停電も大変でしたね
自宅は江戸川区なので計画停電は実施されませんでした
千葉の方からの送電線が霞ヶ関の方に繋がっているらしくそのおかげで江戸川区は停電しませんでした
現場は足立区だったので計画停電実施地区で時間割によってはお休みしてました
お昼から停電の時に時間まで作業したのですが1時になったらピタッと町が静まりかえったのを
今でも鮮明に覚えています
電動工具使わない作業を残しておいたり
充電工具を揃えたり
コンプレッサーの予備タンクを準備したり
とても貴重な経験をしました
仮設住宅や震災復興で仙台出張の話が何度か出ましたが、おかげさまで仕事があったのと
子供が小さかったのでさすがに断りました
宿付き飲み付きで手間は東京の単価って募集だったので独身だったら行ってたかもです
あれから10年
僕は47歳になり、子供は12歳、10歳、6歳と元気に成長して幸せな人生を歩んでいます
たまたま東京に住んでて直接的な地震の被害を受けませんでしたが
東北地方を中心に何十万もの人が被災し2万人近くの方が亡くなったことを思い起こすと
自分の家族が犠牲にならなかったことはたまたまなんだって改めて思います
突然家族との別れを経験した人のことを思い計ると自身の父親や姉との別れを思い出し
涙が出ます
あの日犠牲になった方々に哀悼の意を表します
あの日被災された方々のご多幸を祈念いたします
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